松本城と萬年屋

城下町散歩

萬年屋、松本城捨て堀の土塁跡

現在の萬年屋の敷地は、旧城下町の武家屋敷と町人街の境にあります。 武家屋敷の部分は明治以降、当家が買い足したもので、かつてはこの境に捨て堀と呼ばれた全長300メートルに及ぶ堀があり、町人街と武家屋敷をへだてておりました。 松本藩主、石川康長は江戸幕府に無断でこの堀を掘ったことが原因で改易されたとも言われております。 この堀を掘った土は土塁として盛り土になっていたのですが、明治以降水害の折々に土嚢に使用され、現在ではほとんどその跡をとどめてはおりません。 萬年屋の敷地内にはこの土塁跡が保存され、丹精された四季折々の花々と共に御来店の皆様に御照覧いただいております。

江戸時代の松本城とその周辺の鳥瞰図 ▲江戸時代の松本城とその周辺の鳥瞰図
松本城外堀 ▲松本城外堀

 

萬年屋、夜光稲荷の伝説

大坂夏の陣の折りの事だそうです。 当時、松本城主になる以前の戸田康長が、夜の合戦で敵との組討になりました。 家臣たちが救おうとするのですが暗闇の中、どちらが主君でどちらが敵かわかりません。 その時、一匹の白狐が火の玉とともに飛来したため辺りが明るくなり、組みしかれている康長の姿が浮かび上がったので、家臣が主君を救う事ができたのだといいます。 このことから康長は松本に移封後、城内に夜光稲荷を祀り、それが後々城主の変遷とともに家臣の屋敷に移されました。 明治以降その家臣から当家が土地を買い受けた折に、この夜光稲荷も萬年屋でお祀りすることになり、前述の捨て掘の土塁の天辺に祠を建てて現在にいたっております。 たびかさなる明治以降の水害の際に当家の部分だけ土塁が保存されたのは、このお稲荷様あってのことと伝承されております。 捨て堀で改易された石川氏、夜光稲荷の伝説の戸田氏共に、忌み名が康長であることも、歴史の偶然ではあります。

萬年屋に現存する土塁跡と夜光稲荷 ▲萬年屋に現存する土塁跡と夜光稲荷
松本城 ▲松本城