萬年屋について
みそつけものこうじ萬年屋看板
夕方の松本城
萬年屋の創業は天保三年(1832年)。江戸時代の後期に当たります。
当時の松本城下は本町・中町・東町の親町三町と、その枝町から成り立っており、萬年屋は東町に創業し、現在に至っております。
夕方の松本城のお堀
東町および親町はまた、善光寺街道とも呼ばれ、弊社の前を北に進むと長野市の善光寺から北国街道に、南に進むと中町、本町を経て塩尻市の洗馬宿で中山道に合流します。
東町の一筋松本城寄りの界隈は片端と呼ばれ、かつては松本城の外堀に面し、武家屋敷が立ち並んでおりました。
萬年屋の立地はちょうど武家屋敷と町人街の境にあたり、現在はかつての武家屋敷の敷地を工場にしております。その境界には昔、捨て堀と呼ばれた松本城最外部の堀と土塁が存在しておりました。
今も弊社の敷地内にその土塁跡が高さ5メートル、15メートル四方ほどの築山状に残り、稲荷社が祀られております。
桜
この稲荷社は松本城主・戸田康長に因むものとされ、こんな伝説が残されています。
大坂夏の陣の折、夜戦で康長は敵と組み打ちになりました。家来が助けようにも真っ暗闇で、殿様と敵との区別がつかない。そのとき不意に狐火が現れ、康長の顔が照らされたことにより命拾いができた、と。
それを感謝して康長は城内に、夜光稲荷という稲荷社を祀りました。
のちに城主が変わり、夜光稲荷は家来の屋敷に移され、さらに明治以降その屋敷を買い取った私の曾祖父が土塁跡に移して、今もお祀りしております。
萬年屋の従業員
萬年屋は私で六代目。幸い、現在高校二年生の息子が跡を継ぐと申しております。
あと八年で萬年屋は創業二百年を迎えます。そのころには大学を出て、多少は世間の空気を吸った息子が、家に戻ってくる予定です。